毒親育ち、自分を失くす。ep7-1【中学生になったら、学校が生きるすべてになった。】

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毒親育ち、母になる。

ここに来てくれてありがとうございます。

毒親の猛毒にやられて、警察沙汰になりそうな問題行動を起こしたり
小学校卒業まで夜のアレが治まらなかったり
わたしの小学生時代は嫌な記憶で幕を下ろした。
(卒業間近のお話はこちら!
毒子、問題行動を起こす。ep6‐part2
【毒親に育てられたら、夜のアレが12歳まで治らなかった。】

中学校生活は、思春期のエピソードも少しはある。
でもね。やっぱり毒親の毒素でうまくいかないかったんだ。

中学校時代はその毒で心が壊死し始めた。

その猛毒も弟の誕生を境に、毒の性質が変わってきた時期でもある。
どんな中学時代だったのかも含めてありのままを綴りたいと思います。

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気が付いたら今度は、弟が生まれていた。


2つしかない妹の記憶と同じで弟が生まれる前の記憶も、過ごした記憶もほとんどない。
(妹の記憶についてはこちらへ↓)
毒子の妹、1歳で旅立つ。ep4【突然やってきた妹の2つの誕生日】
若い子は知らないけど、地下鉄サリン事件が起きたあたりに弟が生まれた。
恐ろしいのは、弟の記憶も数えるくらいしかない。

3月に帝王切開で生まれた。
出産前後の記憶はたったこれだけ


予定日にうまれたのか、
少し早く生まれたのかよく知らない。
男の子が生まれるのは知ってたけど
名前も病院に向かう車の中で聞いた。

妊娠中の毒母を知らない。
もちろん一緒に住んでいた。
なのに、お腹の大きな毒母を私は知らない。
産婦人科にいってきてどうだったとか
こうだったとか聞いたことがない。

一度だけ、生まれた時に病院に行った記憶がある。
帝王切開だったから痛みでつらそうにしている毒母の姿を覚えてる。
だから、3月生まれで12歳離れてる。これしか知らない。

弟とは、もちろん一緒に住んでた。
だから同じ時間を同じ場所で過ごしてるはず。
でもね。
学校から帰ってきたら面倒みてた、とか
弟がハイハイしてた、とか
歩き始めた、とか言葉を話し始めた、とか知らない。


こうして言葉を綴っていて気付いたことがある。
弟にも誕生日はある。
その誕生日だって祝った覚えがない。

弟は保育園から高校まで運営している
私立の保育園・幼稚園・小学校・中学校・高校に
それぞれ受験して入った。地元では有名な進学校の特進クラス。
国語の授業以外、英語で授業を受けるらしい。

受験というと、ドラマでしか知らないけど
3者面接の練習とかしているイメージ。
それすら知らない。受験日だって入学式だって運動会だって
呼ばれたことはないし参加したこともない。

記憶がそもそもないのか、記憶はあるけど消してしまったのか。
未来永劫、毒親家族と会うことはないからほんとうのところは分からない。

ただ。はっきりしているのは一つだけ。
その場に居させてもらえなかった。

それは確かだったんだ。
弟に近寄らせてもらえなかった。
だから、弟との記憶なんてあるわけない。


学校にいる時間だけがわたしが生きていられる時間になった。

 

入学直後の大きな決断、入部をどこにするか問題。

入学した中学校は、
2つの小学校が合併してできた公立のマンモス中学校だった。
しかも、市内では評判の悪い学校で
わざわざ学区外の中学校へ通わせる生徒もいたほど。


そんな荒れた中学校でも仲の良いお友達ができて、
可もなく不可もなくただ淡々と過ごしてた。

校則はまあまあ守ってた。
破ると上級生とか、スクールカースト制度の上流にいる女子たちに
目をつけられたりするからね。
階級は下だったし目立つ生徒ではなかった。
暗い子ではないけど、中心にいるよう生徒でもなかった。

そんなわたしが入部したのは、バレー部。
クラスの仲良しの子はソフト部。
でも、全国大会に出場するほどの実力がある部だったから
本気の部だった。そこでソフトボールをあきらめてバレー部にした。


でもね、150センチしかないし運動も得意ではないんだよね。
小学校で仲の良かったN村ちゃんがバレー部に入ったから
クラスは違ったけど、その知ってる顔に安心して入部した。


N村ちゃんは、同じクラスの子と一緒に入ったから
わたしは仲良しグループの中でも
ちょっと外れないように必死に食らいついてた。

学生にとってクラスと部活動がすべての世界。
だから、ここでも孤独になるわけにはいかなかったんだ。

このバレー部に居場所がなくなると生きてる感覚をなくしてしまう。
だから、いつも居場所を守るために必死だったんだ。

家に自分の部屋はあるけど、そこで一人でいるのはつらかった。


バレー部は途中でやめたのか、
万年球拾いで卒業したのか覚えていない。
卒業アルバムは手元にはないし
12年間の学生時代を知っている人の連絡先を1人も知らない。
だから、確認しようがないけどどうしたのかな?

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小林さん、男バレの中心メンバーと文通を始める。

バレー部が練習する体育館には男子バレー部もいた。
その中のひとりと文通することになった。
どうやって始まったのかも覚えてない。
隣のクラスだったし。

ただ、よく目が合ってたから意識してたのかな?
当時からレギュラーで頭もよかった。
わたしが住んでたマンションは中学校のグランドから徒歩5分だったから
通学路の帰り道一緒に帰るといってもすぐお家についてしまう。
だから、目の前の海でよく話をしてた。


どんな話をしたのか全く覚えていない。
どれくらいの期間、文通が続いたのかも覚えていない

覚えているのは、当時よくカセットテープに録音した音楽を聴いていたこと。
わたしたちが生まれる前に流行った曲を好んでいた。
彼を思い出すと流れてくる歌がある。『チューリップの青春の影』という曲。
この曲を聴くと、彼を思い出す。

自転車で山の上までサイクリングに行ったことも覚えてる。
その帰りに派手に転んで恥ずかしい思いをした。
ナイアガラの滝を見に行ってみたいと、語っていたけど
見ることはできたのかな?


家族の中に居場所がなくてつらい中に
そんな淡い思い出が残ってる。


でもね。この記憶もハッピーエンドに終わっていない。
彼にとってわたしは最悪の思い出だとおもう。

同じクラスの子を好きになった、とウソをついて彼を傷つけたから。
ほんとうはただの義理チョコを渡しただけなのに、本命チョコを渡してきたとウソをついた。


気持ちを確かめたかったんだ。
どんな状態でも好きでいて欲しかったんだ。


彼は中学1年生の夏にスティーブンス・ジョンソン症候群という難病になって苦しい時をすごした。
わたしはその時に、彼に手を差し伸べてあげられていたんだろうか?

文通をしなくなった後、同じクラスになった。
でもね、話すことはなかった。
ごめんなさい。が言えなかったんだ。
結局、そのまま卒業した。

高校は、卒業生に教師が多いという進学校に進んだ。
一度だけ、電車に乗っていたとき
目の前のドアから彼が乗ってきたことがある。


彼の背中を見ながら、ずっと声を掛けたかった。
ごめんなさい。っていいたかった。
でもね、やっぱり言えなかったんだ。

今でも、彼は夢に出てくる。
教師から理学療法士になるという夢を持った彼は
きっと、どこかで理学療法士をしているんだと思う。
会うことは永遠にないけど、
いいお父さんになっているんだろうな。

O島くん。
あの時、傷つけてごめんなさい。
そして、家族の中に居場所がなかったわたしの
居場所になってくれてありがとう。

 

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電車通学を理由に、帰りが遅くなった。

中学3年の時、なぜか学校まで徒歩5分のマンションから
市内でも外れの家に引っ越した。(理由はよく知らない。)
徒歩5分だった通学が電車とバスを乗り継いで
通学時間が40分くらいになった。

お家は居心地が悪かったし、
自分の部屋しか居られる場所がなかったから
通学に時間がかかるのは不便だけど、好都合だった。

通学のために、早く家を出なきゃいけないし
電車発車時刻によっては、バスの発車時刻まで1時間空くことも多かった。

基本門限は5時だった。
3時くらいに学校が終わって駅まで15分くらい歩いて、
電車とバスを乗り継いで帰宅。
移動も合わせると、1時間は見積もらないといけない。
ぼちぼちしてたら、5時過ぎるし、毒父が帰ってくる。

毒父が帰る前に帰ってこないと、玄関から怒鳴りながら
殴ってくるからなるべくなら早く帰らなきゃいけないから。

でも、居心地が悪い家にはなるべく居たくない。
部活やら、なんやら理由をつけて
タイミングよく電車に乗れなかったってウソついてた。

帰宅時間をちょっとだけ遅くすることはしても
8時9時なんて遅くには帰らなかった。

心のどこかでこれ以上嫌われたくない気持ちが残っていたから。

当時のわたしは、子どもの頃の寂しさを抱えたままだったの。
13歳過ぎても毒親から愛情をもらいたかった。

愛情っていうから、かまってちゃんみたいに聞こえるけど
ただ弟みたいに、気にかけてもらいたかった。


一言でいいの。
一言でいいから声をかけて欲しかった。

嫌われたくないから、行動とか気持ちをコントロールするのって
ACちゃん(アダルトチルドレン)とか、機能不全家族の中で育った人には
あるあるだとおもう。

心の片隅に、この人たちは本当にわたしを嫌いになるかもしれない。
そう思ってたところがあるような気がする。
だから、家に帰らないとか、
朝帰ってくるとか振り切ったことをしなかったと思う。


ほんとうに嫌いになってほぼ突き放されるかもって思ってるってことは
毒親を信用していないってことになる。でも、信じたい気持ちから
最後の一線を越えられなかった。

‎‎何があっても大夫って思ってたら
‎‎気にしないでどんどん反抗するはずだから。

こうやって、中学生のころは毒親の愛情が欲しい気持ちと
なんで弟ばかり気にかけてもらえるのか、納得できなくてイライラしてた。

そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま、
気づいたら、進路希望を出さなきゃいけない時期になってた。

 

まとめ

中学校時代の淡い恋のエピソードは、記憶の中にしっかり残ってた。
でも、やっぱりハッピーエンドじゃなかったね。

学生にとって学校は第二の生活圏。
その第二の生活圏の中でも、孤独にならないように
必死
だから、顔色ばっかりみて自分というものがなかった。

家でも学校でも『孤独』が怖くてビビッてた。
24時間、気が休まることなんてなかった。
でも家にいるよりマシだった。

だから、引っ越しして学校まで徒歩5分だったのが
電車とバスで40分くらいの通学時間になった時
家にいる時間を1分でも短くするために、
理由をつけて1.2本遅い電車とバスを選んでた。

中学校時代の記憶もほとんどなかった。
と、いうよりこれといった事件がなかったんだろうね。

次の記憶は、中学校の進路希望のこと。
毒母にもらった数少ない『教え』の一つをもらったよ。
じゃあ、ありのままを綴っていきますね。

 

最後に、ここまで読んでくれたあなたへ。

機能不全家の家族の中で毒を持った親や親戚に育てられたあなたは、
きっと今も苦しくて辛いんだと思う。

30年自分を責めて、生きづらくてしょうがなかったわたしが今、
こうして毒親や毒族の毒から解放されてのらりくらりと生きてます…(笑)

猛毒の後遺症が激しいから、
覚えることはたくさんあるけれどなにより
自分というもの認めてあげることができたから
毎日、なんとかギリギリ前向きです。

大丈夫です。
毒親や毒族がなんといおうと、
あなたは価値のある尊い人です。

声を大にして言いたい。

大丈夫、絶対によくなるから!!!

ほんとだよ。では、またね。
いつか会えるときまで、元気でね!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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